【政界随一と謳われた英語力】宮澤喜一 第78代内閣総理大臣 議員会館の食堂やロビー、議場では英字新聞や英字誌を読んでいるのが常だった – 90s生まれミレニアル世代のメモ帳/備忘録

【政界随一と謳われた英語力】宮澤喜一 第78代内閣総理大臣 議員会館の食堂やロビー、議場では英字新聞や英字誌を読んでいるのが常だった – 90s生まれミレニアル世代のメモ帳/備忘録

【政界随一と謳われた英語力】宮澤喜一 第78代内閣総理大臣 議員会館の食堂やロビー、議場では英字新聞や英字誌を読んでいるのが常だった – 90s生まれミレニアル世代のメモ帳/備忘録

https://www.youtube.com/watch?v=-QLcB4e5kFU&list=PLRtRaBFlnH06Nx7w29SByutyC8lhtR16i&index=22

英語屋の面目

米国のナショナル・プレス・クラブで演説する宮澤(1992年7月)
「政界随一」と謳われた宮澤の英語力だったが、海外留学や英語の専門教育を受けた経験などはない。本人によると、東大時代に日米学生会議の日本代表の一人に選ばれて渡米したところ、それまで勉強してきた英語がほとんど使い物にならないことが分かり、一念発起して本格的に英語の勉強を独学で始めることにしたのだという。日中戦争から第二次世界大戦中にかけて、英語が「敵性語」として一般には排斥されていた時代にも、手に入る洋書や英字誌は片っ端から読むようにした。戦後の占領が始まると、GHQとの交渉ができる大蔵官僚として引っ張りだこになり、毎日のように英語を使う日々が続いたという。

議員になってからも、議員会館の食堂やロビー、議場では英字新聞や英字誌を読んでいるのが常だった。あるとき背後から、いきなり強い口調で「日本の国会議員なら、日本語の新聞を読みなさい!」と叱咤されたことがある。宮澤が振り向くと、そこには当時まだ新人議員だった浜田幸一が眉を吊り上げていた。しかしいちゃもんを付けた相手が宮澤と気づいて、今度は浜田の方が大いに慌てた。そんな浜田に向かって宮澤は、「国会議員なんだから、浜田さんも英字新聞ぐらいはお読みなさい」とやり返している。浜田はこれに感化されて、しかし自分は英語はまるでダメなので、代わりに息子の浜田靖一アメリカの大学に留学させることにしたという[注釈 4]。

外国首脳や大臣との会談の席では、外交プロトコル上は必ず通訳を同席させることが決まりごとになっているが、宮澤はそれでも米・英・豪・加などの首脳とは、いちいち通訳の言うことを待たずに一対一で会話を主導した。あるとき大臣として外遊した際、同行した別の閣僚に付いていた通訳に不安を感じた宮澤は、その一言一句をしっかりと横耳で聞いていて、誤訳があると間髪を入れずに訂正を入れたという逸話もある。そうした完璧主義が災いしてか、宮澤の英語力を煙たがる官僚や代議士が永田町には少なくなく、特に宮澤嫌いだった田中角栄からは「英語屋」と呼ばれて通訳並みに見下されていた。

宮澤が総理在任時の1992年1月、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領が来日した。2日目の総理官邸での晩餐会の席上、ブッシュが突然隣に座っていた宮澤の膝の上に嘔吐した上、椅子から崩れるように倒れるという椿事が起こり、しかもその映像が全世界に配信されたため、各方面に衝撃が走った。翌朝、官邸に詰めかけた内外の報道関係者を相手に、宮澤は一人で記者会見に臨み、30分近い状況発表と質疑応答のほとんどを英語で行った。宮澤の説明は、現在の大統領の容体から、来日前からインフルエンザで体調不良だったこと、日中に皇居内で天皇皇太子徳仁親王を相手にテニスをしたことで体力を消耗していたこと、そして晩餐会席上の様子や食事の内容に至るまで、極めて詳細かつ専門的なものだったが、その語り口は沈着冷静でいかにも堂に入った様子だった。前代未聞の大統領の醜態に蜂の巣を突いたような状態になったアメリカのメディアも、膝に吐かれた当の総理本人が淡々と説明しているの見て、これなら心配はないだろうとすぐに落ち着きを取り戻している。次のクリントン大統領は宮澤と一度だけ会談しているが、その際この時の宮澤の対応ぶりを賞賛している。

国際会議や交渉の場を重ねるうちに宮澤はフランス語の必要性を痛感して、中年を過ぎてからその勉強を始めている。本人は「志半ばで終わった」としているが、官僚、国会議員、閣僚、そして総理と、長年にわたって多忙な日々を送っていたにもかかわらず、常日ごろから仕事の合間には勉強を怠らなかったことは多くが認める宮澤の徳目の一つである。

 

 

 

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